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ตั้งหัวข้อ  สมญา ผกากลิ่น on Mon Oct 03, 2011 5:41 pm

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1イモ洗いとムギ拾い

ふつう、文化というと、ドイッ流の文化哲学の影響を受けて、人間精神の創造的産物といった高い次元の現象を考えがちだ。しかし、生活という基礎的な次元から考えるほうがより機能的でもあるし、社会学的ではないだろうか。「文化とは、ある社会のなかでみずからの手によって創られ、個体に分有され、社会によって伝承される生活様式」という考え方だ。

生活という現象のなかでとらえていくならば、動物社会のなかにも文化的現象が当然見られてもよいはずだ。ただ、文化といいきってしまうと、ドイッ流の固定観念にひっかかったり、誤解されたりするおそれがあるので、文化的行動ということばをつかっていくことにしよう。

ニホンザルの文化的行動として、もっとも有名なのは、幸島の群れのものだろう。1953年のこと、ひょっとしたことから1歳半になるメスザルが、イモについた砂を水で洗って食べることを覚えた。この行動は母親からきょうだいや仲間を通じてしだいに群れに伝播し、10年後には、2歳以上のサルのうちの73パーセントまでが海水でイモ洗いをするようになった。

イモ洗いの伝播についていくつか注目すべきことをあげると、第一には、伝播の仕方だ。最初の5年間、この行動は、血縁や仲間という個体関係のチャンネルを通じて伝わっていった。若いサルは、弾力性が強いから早く覚える。したがって、伝播は子どもから母親へというルートを通じて行なわれる。6年目あたりからは、伝播の様式がちがってくる。イモ洗いを覚えたメスの子どもが、成長して赤ん坊を持つようになる。赤ん坊たちは、生まれ落ちたときから、母親のイモ洗い行動に親しんでいる。そして、2歳にもなると、新しい世代の子どもは、みんなイモ洗いを覚えるようになっていく。だから、第1期の伝播様式を個別的伝播とよぶならば、第2期のそれは、まさに「社会によって伝承される」文化的な伝播ということができる。

次に、イモの洗い方にも変化ができてきた。初期の連中は、まるでたわしでこするようにみごとに手でイモをこすって砂を落とす。ところが、後期になると、ひと口かじっては、イモを海水につけるというやりかたに変わってきた。どうやら、塩味をつけて食べることを覚えたらしいのだ。イモ洗いというよりも、味つけ行動といったほうがいいかもしれない。

もうひとつ、おもしろい文化的行動がある。それは、砂金採集法とよばれている行動だ。海岸にまかれたムギは砂まみれだし、砂にめりこんだのをひとつずつ拾って食べるのはたいへん非能率的だ。そこで、ムギを砂ごと手でかきよせ、両手で持って海辺にいき、海の中に砂を投げすてる。すると、ムギはきれいに洗われているし、たいへん拾いやすい。この行動は、砂金の選鉱法に似ているので、砂金採集法と名づけられた。この行動の創始者は、まえのイモ洗いの発明者であるイモと名づけられたメスだ。この行動も、つぎつぎと伝播し、4年後には19頭のサルが行なうようになった。

オトナは保守的で、こうした新しい行動を覚えるのが非常に困難らしい。ここでゆかいなことが起こった。メスガシラのエバや、その長女のサンゴといった強いメスたちは、自分で砂金採集法ができないので、他のサルの仕事を利用することを覚えた。たとえば、サンゴは、少女ザルが砂を集めるのをじっと見ている。そして、少女が海中に砂を投げるやいなや、はげしく攻撃して追いはらい、浅瀬のムギをよこどりして食べるのだ。

労働と搾取の起源にくっつけるつもりはないが、この行動は、かなり意味深いものをもっている。つまり、他のものの労働による結果を労せずして利用するということで、ニホンザルの行動では、これに類する行動はほかのことではまだ見られていない。

イモ洗いと砂金採集行動に共通した現象は、若いサルは、どんどん新しい行動を身につけていくが、オトナのサルは、それができないということだ。オトナは保守的で、新しい習慣を開発していくことができないというのも思えば愉快である。

『人類の誕生』(世界の歴史1)、[今西錦司、河出書房1969] による


๑.「……高い次元の現象を考えがちだ」の「がち」の意味に該当するものを次から選びなさい。

a.そのようになることが多い b.そうする価値がある c.そうするよりしかたがない

๒.「1953年のこと、ひょっとしたことから1歳半になるメスザルが」の「ひょっとしたこと」とはどういう意味か。

a.不意にしたこと b.ちょっとしたこと c.突然起ったこと

๓.「ひと口かじっては」の「ては」と同じ働きをもつものを選びなさい。

a.先生が字をまちがえては困る
b.これは100円にしては品がいい
c.雪が降っては消え、消えたかと思うとまた降る

๔.「ムギを砂ごと手でかきよせ」の「ごと」の意味は次のどれにあてはまるか。

a.会う人ごとにあいさつをする b.一雨ごとに暖かくなる c.りんごをかわごと食べる

๕.「少女が海中に砂を投げるやいなや」の「やいなや」は次のどの意味にあたるか。

a.~したあと b.~するとすぐに。c.~する前に

๖.「他のものの労働による結果を労せずして」の「して」と同じ使い方のものを選びなさい。

a.みんなして力を合わせてやればすぐ出来る
b.期せずしてあなたの意見と一致した
c.今にして思えばあの時が彼に会った最後だ

๗.「文化とは、ある社会のなかでみずからの手によって創られ……」とあるが、その「みずから」はどのことを言っているか。

a.文化 b.社会 c.人聞

๘.「第2期のそれは、まさに……」の「それ」は何をさしているか。

a.イモ洗い行動 b.イモの洗い方 c.イモ洗いの伝播様式

๙.これに類する行動」とはどんな行動なのか。

a.イモを海水につけて食べるという味つけ行動
b.砂金採集法とよばれている砂金採集行動
c.他のものの労働による結果を労せずして利用する行動

๑๐.「オトナのサルは、それができない……」の「それ」は何をさしているか

a.イモ洗いということ b.砂金採集行動 c.新しい行動を身につけること

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แก้ไขล่าสุดโดย สมญา ผกากลิ่น เมื่อ Fri May 25, 2012 5:40 pm, ทั้งหมด 1 ครั้ง
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結婚観の変遷(抄)ขออภัยที่ขณะนี้ ยังไม่มีเวลาเรียบเรียงคำแปลไทย

ตั้งหัวข้อ  สมญา ผกากลิ่น on Wed Nov 02, 2011 1:40 pm

明治以後、結婚の方式でうんと変った点といえば、仲人結婚が普及したことです。こういう方式は、以前にも武家や都会にはあったけれども、一般庶民や田舎の村にこれらが広かったのは、明治中期以後と考えてよいでしょう。それには、維新の革命で封建割拠の体制が崩れて国内の交通が自由になり、人々が土地を離れて出歩きやすくなり、資本制経済が次第に発達してきて従来の狭い生活環境が急に広がってきたことが、大きく作用しています。逸れにつれて人々視野が開けてくるとおのずから通婚圏も拡大されるのが当たる前です。こうして配偶者を選ぶ範囲がずっと広くなるわけですが、それに伴って若い人達の異性を見る目が肥えてきたかというと、その点は疑問です。外見を見る機会は多いのですが、心の中を見通すとはかえって出来なくなりました。そなると、恋愛も結婚も、若い者達が自分で用意するのは、大変に危険で、失敗しやすかった、当たり前です。以前には、若者達にこういう能力を養成した機関が、ちゃんと村の中にあって、それが、若者組みや娘組みの宿だったのです。しだし、それは結婚の管理機関として村内婚にかたまり、村外婚についてはむしろ阻止する傾向がありました。従来若者組と家とは子女の結婚を巡って対立しやすかったし、その仲裁にえわゆる親分が口を利いていました。この家族と親分とは村外婚をも辞さなかったし、通婚圏の拡大にも役立っております。ところで、維新後、ご承知のように、色んな新しい自由が認められてきましたが、通婚圏の拡大に伴って結婚の自由も伸張される訳ですから、それに即応して若者制度も村限りという枠を超えてその組織を拡張する必要がありましたが、一向にそれが出来ず、徒(いたずら)に村外婚を妨(さまた)げ、かえって結婚の自由を阻(はば)むように働きました。例えば、「村の娘達は俺達のものだ」とか、「村の娘を余所(よそ)者にとられるな」というようなことばかり、彼らは考えていたのです。だから、彼らは、余所者と結婚する者を制裁したり、それらの家に酒食や金品を強要したり、家々の承知しない「夜這い」をやったりして、かえってだんだんに自分達の評判を悪くして行(ゆ)きました。こうして旧来の若者制度は廃(すた)って一時潰滅状態になってしまうのですが。日清戦争後、再びこの制度の意味が認められ始めて、青年会や処女会として復活してくるのですが、この時はもう結婚上の機能を全く失っておりました。つまり、そこには男女の社交機関としての意味はありません。それでも、一部には成年会が以前の若者組の伝統を保存した面もありますが、娘組の伝統は殆ど断絶してしまいました。そこで、彼女達は、社会人としての訓練も、広い意味の性教育を受ける機会もなくなり、時たま自分の判断を信じて勇敢に異性を求めたものは、「すれっからし」とか「あばずれ」という非難を受けねばならぬし、また、そういう結婚を保障してくれる仲間がなかったので、惨(みじ)めな失敗に陥りやすかったと思われます。そうなれば、普通の娘達が必要以上に慎重にならざるをえなかったのも、当然であります。そこで、彼女らは、ともかく世間の酸いも辛いも知り尽くした人達に頼ろうとすることに成るわけです。
こうして仲人結婚が若い者に受け入れられる素地ができるのですが、それにまた仲人でもしてだろうという閑(ひま)人がいなければありません。従来仲人役を引き受けたのは、前に言ったように、家や親分でしたが、仲人結婚が普及し始めた転換期には従来主として結婚を管理してした若者の仲間よりのずっとましな機能を発揮する必要があったわけですから、それだけ十分な配慮をしてやられる閑と金とがいります。従来そういう閑人といえば、働かずとも食うに困らぬ隠居だったのですが、明治の中頃から仲人結婚が普及するのは、寄生地主の発達の対応していると思われます。というのは、かれらは、手作地主とちがって、閑人だからこそ、社交や遊蕩や投機や選挙運動にたずさわることができたし、また、「出雲の神様を引き受けることができたわけです。
福沢諭吉が、西洋流の結婚と比較しながら弁護している日本流の結婚というのは、このころのそれです。
西洋諸国では、当事者の男女が自分で見て相手を選び出し、たがいに行き来して親しくなり、いよいよ決心が出来たところで、両親に話し、その同意を得て結婚式をあげる。日本ではこれとは趣を異にし、男子女子のために相手をみつけるのは、両親の責任である。そこで、子女が年頃になると、いろいろと苦心をして探し廻り、帯に短したすきに長しと思案して、いよいよこれならばよかろうとまず両親がきめて、そのうえで本人の意向をきき、異存が無いとなれば、結婚式をあげることになる。だから、ほんにんは、結果をうけとるだけのように見えるけれども、その実はそうではなく、両親は発案者であって決議者ではない。本人に話して駄目ならば、第二の候補者を探すのが例だから、外国人が日本人の結婚を両親の意向できまるというえっているのは、実状を知らぬ者の言で、取るに足らない。ちょうど封建時代にい武家は百姓町人を斬り捨てるとはいうものの実際には斬り捨てたものが無いように、名目上そうなっていても、習慣上許されぬことである。ただ、世の中は広いもので、誠の両親が銭のために娘を売るものさえあるのだから、いわゆる親の威光で娘の嫁入を強いるものもあろう。昔の馬鹿侍が酔狂で路傍の小民を手打ちにすると同じく、情知らずの人非人として世間から排斥されるから、こういう極端な例を除けば、概してえば、女子にそれほど不平は無かろう。
ここで、彼が、当時の結婚が女子にそれほど不満なものではなかろう、といっているのは、大事な点です。これを行き成り彼自身の近代性の限界とか封建制の所産だなどと批評してしまうのは、ちょっとせっかちすぎましょう。というのは、後で述べますが、彼の婦人論は、当時として大変に進んだものだったし、今から見ても概ね正論と思われるほどのものだからです。つまり、子女たちにとって都合のよい習慣がちゃんと裏づけていたし、また、子女達もそれで結構幸福を掴んで行(ゆ)くことが出来たのでしょう。
ところが、寄生地主が色々の事情から都会にひきうつって、別に仕事を 持つようになりますと、いままでのような閑はなくなります。だから、これまでのように、若い者の親身になって奔走してお膳立てをすることは、無理です。しかし、仲人親となって結婚した若者と長い付き合いを持つことは、有力者としては色々と便宜のあることですし、ことに政治家や選挙運動に従事するものにとっては、ことに都合がよかったのです。それと並んで、結婚式が段々に派手になってきて、なるべくは有名人をよんでこれに栄誉を添えようとする風が起こってまいりましたから、お膳立ては別にしておいて、結婚式用の仲人を名士に頼むことがはやって,こういう仲人をテーブル仲人、座敷仲人、盃仲人、こういう横着な仲人が歓迎されることになると、政治家や運動屋がこれにとびつくのは当たりまえです。こうなりますと、一人で二百組、三百組はおろか、千組の仲人をするのが望みだなどという手合いがでてまいります。仲人は、若い者にとっては実はそれだけお粗末になるというものです。こうなると、お膳立てをする者も相当無責任で、成立後のお礼を目当てに、職業化してきます。そうでなくとも、盛んに記録をあげようとしますから、若い者の意志は当然無視されがちです。〔くっつけてしまえば、あとはなんとかなるさ〕というわけで、詐欺に類する仲人さえ起こりやすく、信用できぬの代名詞のような仲人口という言葉さえでてきます。
政略結婚の変化
子女が配偶者を選択する権利を放棄することがもっとも極端にあらわれたのは、政略結婚でしょう。近代の政治家や実業家の結婚は多分にこういう傾向が見られます。それには、親が専ら政略的な考慮から子女に一定の結婚を強制した場合も多いけれども、逆に子女がこういう結婚を出世の野心から実は選びとっている場合も多いのです。もちろん、結婚そのものから言えば、変則的な選択のしかたであることは、いうまでもありません。女が〔玉の輿〕といって身分の高い男に嫁ぐことを喜ぶ風は、昔からあったし、男が身分野高い人の娘を貰うことを出世の手蔓としたのは、近世の養子縁組に始まるのですが、近代の若い人には特にそれがひどかったといえましょう。
〔男と女のことだから、一緒におけば、自然にくっつく〕などという狡猾なる老人の策略にうまうまと乗せられて、これはまたみごとに一緒になってしまい、老人達もあてられしまうような幸福な家庭を営んだ男女も少なくありませんが、それは、世間しらずの坊っちゃん嬢ちゃんのことで、立身出世組となると、そうではありません。例えば、奥野信太郎が『はるかな女達』(1960年)の仲でSという人物について書いております。その男は海軍兵曹の遺子で相州(神奈川県)小坪の産、父親の死後母は逗子の養神亭でかたらきながら彼を育てました。彼は中学でも一高でも優等の成績で、岩崎の奨学資金をもらって東大の政治科に学びましたが、大変に要領のいいドンファンで、平生口ぐせのように酒と女と野ために身を持ち崩す奴は馬鹿だけれども、酒と女にふけりながら、謝りなく出世街道を驀進する奴が一番頼もしいといって、それを地で行き,東大を出ると、今まで関わりあった女達には目もくれず、さる実業家の娘と結婚し、郡長をふり出しにxx書記官、書記官長、xxx総裁と、息もつかせず出世街道を駆け上ったということです。
これなどは、今の言葉で言えば、全くがめつい奴で、政略結婚を自分からびとっているわけです。いわゆる閨閥というのは、こういうがめつい若者と権勢家との合昨でありました。
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